やわらかな光を浴びた、細かな雨が降り注いでいる。庭は少し霞がかっていて、草木の輪郭が曖昧になり、まるで夢の狭間にいるかのようだ。
 夜明け前に起き出した和仁が予想していたとおり、太陽は隠れ、代わりに、薄い灰色の雲から小雨が降り続いていた。気温は低く、息は白く立ちのぼっていく。昨日までより一枚多く重ね着をしていても、火のそばで暖を取りたいと思うほどだった。
 和仁は、庭の見える縁側の柱に背を預けながら、朧気な風景をぼんやりと眺めていた。早朝に目覚めてから起きたままでいるので、少し睡魔があったが、眠らずにいた。毎日することといったらせいぜい日記を書いたり、考え事をしたり、歌を詠んだり、何度も読み直した書に目を通したりで、ときどき時朝と碁を打ったりするが、起床していると疲労することが多いので、一日に数度、短い睡眠を取っている。出仕したいが、謹慎中の今は仕事がなく、兄を気遣う彰紋から届く文に対し、返事を出したりしているものの、それも頻繁ではない。
 することがあるとき以外は、ただただ時が過ぎるのを待っているだけなので、眠ってしまったとしても、誰も文句は言わなかった。それでも眠い目をこすって起き続けているのは、なぜだろう。
 ふと、室の向こうから話し声が聞こえて、和仁はそちらに耳を傾けた。明るくて可愛らしい喋り方だ。この京の無口な女性たちとは、まるでかけ離れている。
 ととと、と軽い足音が聞こえ、声の主が、和仁のそばにやってきた。

「和仁さん、こんにちは」

 懲りないものだと、和仁は庭の方に視線を投げたまま、うっすら苦笑した。
 花梨はすぐ近くに座り、和仁が今なにをしているのかを探った。いつものことだ。花梨は、和仁のすることや見ているものに興味があるらしい。その答えが分かったとしても、面白くもなんともないだろうに。

「雨が降っていますね……」

 何が嬉しいのか分からないが、花梨は笑んだ声で言って、和仁と同じように庭を眺めた。

「とっても寒いわ……」

 ようやく和仁が花梨を見やると、彼女もまた普段より多く着込んでいるようだった。少し褪せた深紅色の衣を羽織り、寒さをしのいでいる。貴族の女性のように、鮮やかな色の衣を重ね着する煌びやかな姿とは違っていた。そもそも栗色の髪も考えられないほど短いのだ。和仁が彼女に初めて会ったときに、一番驚いたのが髪だった。庶民の女性ですら、ひとつに束ねられるくらいは伸ばしているというのに。
 出生を尋ねたとき、花梨は曖昧に「遠いところから来た」と答えた。そのときの彼女は遠い目をしていた。嘘ではないのだろう。彼女は、この京とは異なる文化を持つ場所から来たらしい。
 花梨の口から白い息が現れては消えていくのを眺め、和仁は淡々と言った。

「よく飽きないな」
「え?」
「私に付き合うなど」

 特別楽しいことはしていないのに。言いながら和仁は、諦めにも似た感情が言葉の中に混じっているのを感じた。彼女をこれまでのように強く突き放すべきだという気持ちは、なぜか今はなかった。
 花梨は少し沈黙し、そうですね……と呟いた。

「私にも、することがないから。でも、自然や雨を眺めたりするのは好きです。昔から好きだった気がする。
 私の住んでいた街って、住宅街……お邸がとっても多いの。京の都もそうだけれど、隣同士がくっつきそうなほど密集しているの。だから、木や花は、お庭の中にしかなかった。花を見たいときには、公園に行きました。公園というのは、子どもの遊び場だったり、ボール……球技で遊んだり、走ったりできるような場所で、自然もあって、それはもちろん、人が植えたものだから、すごく人工的な自然だけれど……」

 花梨の説明を聞いていても想像がつかず、どう返していいか分からないでいると、それに気づいたらしい花梨は言い直した。

「だから私、和仁さんと時朝さんと三人で山に行ったのが、とても楽しかったんです。ああいう場所って、心が落ち着くから好き。空気が綺麗で、風が気持ちよくて」
「そうか」

 和仁は、空を見上げた。雲は、天全体を覆っているが薄く、雲の向こう側の太陽が、この季節で最も高い場所にある時刻のようで、目にまぶしかった。

「……私は、自分が何を好きかも分からずにいた……」

 なぜ、そんなことを言い出したのか、和仁自身にも、よく分からなかった。

「きっと、何も好きではなかったのだろう。叔母と時朝だけが私の味方をしてくれたが、二人を特別好きだと思ったこともなかった。働くことに対しても、それほど意欲があったわけではないし、今思えば、嫌いなものの方がずっと多かった。何が嫌いなのかも、なぜ嫌いなのかも分からないまま」

 花梨は、黙って和仁の話を聞いていた。話しながら和仁は、自分の心の平静さを不思議に思っていた。

「謹慎となってから、この場所で、ひとりきりでいるのは苦痛だったが、最近はそうでもない。日々の移り変わりを見ることは、嫌いではないと気がついた。草花や樹木も、懸命に生きているのだと知った。以前は、花も木も、ただの物にすぎなかった。
 私は、とても貧しい心で花の歌を詠んでいたのだろうな。花が一体どんなものかも知らずに」
「なら、今の和仁さんの心は、とても豊かなんですね」

 嬉しそうに花梨が言う。ばつが悪く感じ、和仁は閉口した。

「……」
「図々しいかもしれないけれど、私、和仁さんとこうやって話すようになってから、和仁さんがどんな人か分かったような気がしました。本当は心優しくて、静かで、穏やかな人なんだって。今の和仁さんのこと、私、すごく好きです」

 急な告白に戸惑って花梨を見ると、彼女は、その年齢にしては妙に大人びた微笑を浮かべて、和仁を見つめ返した。

「和仁さんと、こうしている時間が、とても好き」
「……神子」

 嘘偽りなど感じられない花梨の口調に、和仁は、苦しさを覚える。

「神子。私は、お前に何も返せない……」

 時朝は、和仁に言った。「花梨が優しさや喜びを和仁に与えているのならば、その恩を返すべきである」と。だが、そうしたくとも、自分は彼女が与えてくれるほど何かを持っているわけではない。官位を与えられるわけでも、邸や衣を与えられるわけでも、世の男たちが女に向けるような華やかな歌や語彙があるわけでもない。むしろ、己の穢れが神聖な神子の気に悪影響を及ぼすのではないかと、そればかりが気がかりなのだ。
 時朝に告白したように、自分が穢れもなく罪人でもなかったら、花梨のような心優しい少女に、そばにいてほしいと願えただろう。けれど、決して現実とはなりえない。自分が穢れや罪人であるからこそ、和仁には彼女との関わりが生まれたのだ。それは、なんという皮肉だろうか。
 これは己に下された罰なのだ――和仁は、葛藤の奥に確かな絶望を感じて、目を伏せた。

「神子が、私や時朝に親切にしてくれるのは感謝する。我々は、お前の態度に救われている。だが、私は、お前に対し何もできない。私はもう、何も持っていない」
「和仁さん。前にも言ったけど、私は見返りがほしいわけじゃありません。私は私のわがままで、和仁さんに会いに来ているだけです。他に居場所がないから、ここを頼っているだけ。お礼を言うのは私の方です。和仁さんは私のことを心配して突き放そうとしてくれるのに、突き放されたら、私には居場所がなくなってしまうから、それが怖くて、私はここに来ているんです。本当は、このお邸にいつ入れなくなるか、毎日心配で仕方ないの……」

 花梨の「居場所がない」という言い訳は、星の一族の近くにいるのだから、以前までは嘘としか思えなかったが、繰り返し言うのを聞くと、きっと本当なのだろう。ときどき見せる、どこを眺めているのか分からない目つきや、己の出どころについての曖昧な発言からすると、本当に彼女はもともと京とは無関係な人間であって、何らかの事情に巻き込まれたことで、ここに留まっているにすぎないのだろうと思える。
 もしかしたら、花梨は、自分よりもずっと居場所のない人間なのではないか。そう考えると気の毒になって、深い同情が和仁の心を満たした。

「ならば、私がお前に返せることは、この場所に、神子の居場所を作ることか」

 花梨は驚いたふうに目を丸くして、和仁を見た。どうしてそんな顔をするのだろうと、自分の言葉を頭で反芻して、とんでもない発言をしたと気づく。途端に顔が熱くなった。

「い、いや……深い意味は、ないのだが」
「私、ここに来てもいいの? 和仁さん」

 呆然とした口調に、強い喜びが隠れているのが分かり、ますます和仁はうろたえた。すると、まるでこの機を待っていたかのような調子で奥から時朝が歩み出てきて、「それがよろしい」とすかさず頷いた。

「神子殿のために、この邸はいつでも開けておきましょう」
「時朝!」
「嬉しい! ありがとう、和仁さん」

 今まさにこの瞬間ひらいた大輪の花のように満面の笑みを浮かべ、花梨は和仁の手を両手で取った。触れ合った場所から体温が流れ込んできて、羞恥を覚えた和仁の血は沸騰しそうになった。

「時朝、勝手なことを」
「私、和仁さんにいろんなことを教えてもらいたいの。和仁さんが考えていることや、好きなこと、得意なこと。また山登りに行きたい。他にも知っている場所があるなら教えてください。もちろん、時朝さんも一緒に」
「神子、私は」
「無理して話さなくたっていいの。二人でお庭を見ているだけでも、私は安心するの」

 分かったから放せと、花梨の手をふりほどく。花梨はいたずらっぽく肩をすくめて、笑みを浮かべたまま時朝に小さく頭を下げた。
 まったく……と溜息をついて立ち上がり、欄干の前に佇む。この位置だと、風に舞い上がった細かな雨が肌に当たって寒かった。その冷たい空気に触れたとき、和仁は、急に冷静になった。
 彼女には、帰るべき場所がある。
 どこかは教えてくれないし、たとえ教えてくれたとしても、和仁には、それがどこか分からないだろう。花梨は、いずれ和仁たちの前から去る。いずれ別れが訪れると分かっているならば、深い関係を築かない方がいい。そう告げれば花梨は悲しむだろうが、それに悪意があろうとなかろうと、親しくなったあとの永久の別れは、裏切りに等しいのだ。
 そういう考え方しかできないのは、性根が暗い証拠かもしれない。そんな己を嫌悪しながら、和仁は言った。

「お前の帰る手段も、我々が見つけてやろう……」
「はい?」

 聞こえなかったらしい花梨は隣に来て、和仁の顔をのぞき込んだ。

「なんですか、和仁さん」

 もう一度声にする勇気はなかった。

「なんでもない」

 雨は、花梨にも降り注いだ。まるで身体に吸いつくようだと、少し困ったように頬を手で拭う花梨を見て、和仁は自分の衣を一枚脱ぎ、それを傘のようにした。自分の上にも、少女の上にも。
 花梨は目をしばたたかせ、和仁を見た。和仁は無表情で彼女を見下ろした。花梨はそのうち視線を下ろし、正面を向いて、何かを想い遣るように、じっと黙り込んだ。
 和仁は、そんな姿を眺め、もし自分がこんなにも愚かでなかったのなら、花梨と夫婦の関係になれたのだろうかと考えていた。